日本人には貧乏がにあう!(談志の言葉より)

 「宵越しの金は持たねえ」とか「果報は寝て待て」とか、逆説的な言葉が多かったのが江戸の文化では?と思っていました。人は本来たくわえたいと思っているはずですし、寝て待つ余裕というものも無かったのではないかと。ところがどうもちがうのではないか、その日暮らしでも十分に楽しんでいたのではないかと思い始めたのです。

 生命体は本来、その日暮らしであろうし、その日その日を必死で生きているはずです。だからこそ、その時間を充実して生きて来られたのではないかと思えて来たのです。「明日は明日の風が吹く」と言う言葉もある様に、日々の変化を読み取りながら、その変化に自分の生活を合わせてゆく知恵を持ち、生きてきたのではないかと思い始めたのです。

 西洋はタオルの文化だが、日本は手ぬぐいの文化だ、と言う言葉を聞いた事があります。タオルは風呂上りに使う物から手を拭く物まで、その用途ごとに作られ、色々な種類があります。ところが手ぬぐいは洗う事から強く絞ってふく事までその全てに応用し、時には頭のはじ巻きとして用い、最後には下駄の鼻緒にもなった。と言うのです。

 きっと貧しさからくる創意工夫かも知れません、いや創意工夫ですむ時点なら貧しさとは言えないのでは無いかと思い始めたのです。どの様にしても生きて行けない事を貧しさと言うならば、貧しさ=死という事になるのでしょうし、どんなに豊かになろうともそこに創意工夫が無くなると言う事も無いのかも知れません。

 まだ、飢饉にでもなれば多くの餓死者が出た時代です。その時代でも江戸の街は相対的に豊かだったのでしょう、そのゆとりが「宵越しの金は持たねえ」という言葉を生み出した様にも思います。豊かさとは何処まで行っても相対的なものでしか無いのかも知れません。ただ江戸の庶民は豊かな気持ちで生活していたように思えてならないのです。

 落語の話をしながら江戸庶民の話に触れ、日本人には貧乏がにあうと言った立川談志氏の言葉も、創意工夫の欠如を言いたかったのだろうと思うのです。人の豊かさとは何処まで行っても心の問題という事になるのかも知れません、心の豊かさを失うと物の豊かさを失うと生きては行けないという現実になってしまうのかも知れません。

 不景気になると自殺者が多くなるという現実があります。経済が右肩上がりの時代は自殺者が少なくなる傾向になるのは事実でしょう、生きやすくなるのは事実でしょうから。でも生きるという闘争から逃れられない生命体にとって「死というもの対処する心の問題」という次元からは逃れられない様にも思うのです。自殺という行為も含めて。

 創意工夫の欠如と言ってしまっては自殺という行為を選んでしまった死者に対し申し訳が無いかも知れませんし、あるいは言い過ぎかも知れませんが、物質的豊かさから来る心の貧困と感じずにはいられないモノが私の心のどこかにあるのです。心の欠如も物の欠如と同じように、生きるという事への大変は弊害に成るのではと思えるのです。

 哲学という精神論が先に発達したのも、物の無さを補う最も優れた生き方の知恵ではなかったのか、と思えるのです。日々の生活の中での「生き方の知恵」が、我々の生活を豊かにする基本ではないかと思うのです。               15623


戻る