介護の練習
奥さんが入院した。もう10年にはなるだろうか、テニスの最中しアキレス腱を切ってしまい入院して以来の出来事である。その間は、家族に何のトラブルも無く平穏な日常が続いていた。子供も男(30才と28才)で、私ほどでは無いにしても(二人とも料理は上手い)家事への戦力にはあまりならない。特に私は、無能と言っても言い過ぎではないだろう。
女手が無い所での入院となると奥さんは大変だ、自ら必要な品物を準備しトランクに詰めていた、一見すると旅行にでも行くような光景である。そうなると私は単なる傍観者でしかありえない。まあ入院という決定から実行日まで5日程あったのが不幸中の幸いであった、一年ほど前から通院し経過観察があったのではあるが。
お腹を約20センチも切ったにもかかわらず、次の日からは歩かせられトイレにも行き、一週間で退院という現代医学の進歩にも驚いた。が、日常の中に病院通いという行動が入ると、一週間とはいえかなりの疲労を私も覚えた。妻の退院と共に、妻の休養よりも私の方が眠っている、といった時間が長かったかも知れない。特に2〜3日は。
手術後4〜5日してからであるが、髪の毛を洗いたいから手伝ってくれと言うのです。考えてみれば妻の髪の毛を洗ってあげたという記憶が無いなあ、と思いながらなんとなく手を動かした。体の隅々まで洗ってあげた経験はあっても(もちろん、若い時の話しだが)頭は無いなどと思いながら、年をとると言う事は別の意味での触れ合いに成るのだろう。
「乱暴ね〜」、甘えながらも意外な妻の言葉が返ってきた。髪の毛は長い方だろう、それに反して私はかなり短くしているので、簡単であるしかなり乱暴に洗っているのであろうが、自分としてはかなり丁寧に洗っていたつもりである。「碧の黒髪」と言う言葉がある様に女にとって、重要な身体の一部に違いないのはずではあるが。
私は子供の頃から食は細く、周りの人を困らせた様である。結婚した頃も、食事の後は胃下垂のため横にならずにはいられないといった生活であった。その上、食卓に並んだものは一皿ずつ食べて行くという癖があり、どうしても偏食気味になるようであった。残してはいけないと言う教えが、その様な食べ方になったのであろうと思う。
とにかく、食卓には多くの種類が並ぶ。これは妻が私の少食と偏食にいかに悩まされ、気を使っていたかの表れであろう。私にいかにして多くを食べさせるか、という事が妻の課題であったようだ。結果、多目少量で美味しい物が食卓に並ぶようになり、いつの間にかかなりの食道楽になってしまったようである。
一般的に食道楽の人は、自ら美味しい物を探しだし、遠くまで時間をかけて行く事に何ら躊躇しない。ところが私は基本的には出不精である、遠くまで出かけて行こうなどと言う気持ちはさらさら無い。妻の手料理を美味しく食べたい、と言う最もやっかいな種族の様である。ビール一本を飲みながら少しずつ食卓におかずが並ぶのが最高である。
入院から、二週間ほど外食が続き、とうとう値をあげ、マーケットに一緒に行き荷物持ちを手伝った。最後に、食材が加工されそのまま食卓に並べられる物が、一人分ずつパックされ売られている所に連れていかれた。一人になっても何とか生きて行けるようにとの心使いであろう、ただし味を別にすればの話である。
今朝は、69.8キロ、16.7パーセントであった、目覚めてと共に体重を計測するのが日課になっている。順調な体の仕上がりも、元を正せば食卓からであろうし、妻の気配りがあっての事と思う。一つのものに没頭してしまう性格でも、破綻無く無事に過ごしてこられたのも、陰で支えてもらっての事と思い、感謝の思いのみである。
帰り道、「補助者を探さなくてはいけないんじゃないの?」とは妻の言葉である。冗談を言いながらもどこかに本音が隠されているものであろうか?そう言われる私は、どこまで行っても「手のひらの上で踊らされている」のである・・・。 15年6月17日