不景気も悪い事ばかりでは無い(プロが増えて来た)
景気とはどういうことなのか?と最近思う。生きるのに楽な環境を言うのであろうか?楽をして金が手に入る事を「景気が良い」というのなら、生きる事への厳しさからの回避という事になるでしょうし、楽をする事への要求も限りなく続くでしょうから、経済の停滞は許されるはずも無く、拡大するのが当然という事になるのかも知れません。
しかし、楽に生きられるという事は人として精神的により未熟になるような気もします。生命体として生きるための闘争という次元で弱体化して行く事は避けられない様にも思うのです、ようするに甘えの構造が膨らむ一方で、不満を言う事が仕事になってしまう訳です。でも、経済とは不満を表すことが原点なのかも知れません。
私は歯科医師でした、いや現実には診療から遠ざかっているとは言え今でも歯科医師です。基本的には表現する者として職人です、職人のする仕事と言うものには完成はありません。自分の理想とする形にどれだけ近づけるか、という事でしかないのです。ですから、患者さんの口の中に装着する物も妥協の産物でしかないのです。
その上、日常の生活に使用されるわけですから、耐用年数というものもあります。そこに経済というやっかいなものが加味され、妥協点を低下させる要因になる訳です。具体的には精度や美的要素の追求となれば無限大に続くでしょう。ですが患者さんに理解と言うか、日常生活においてその良さを納得して頂けるか?という事に成るわけです。
私が若かった頃は歯科医師の不足の時代でした、どこの歯科医院も満員で患者さんにあふれていたのです。当然、医師の能力差などというものも問題にされず、まあ「最低の基準を満たしていれば良い」といった風潮がありました。その中で医師のモラルの追求は難しくある訳です。見方を変えれば、大変に景気の良い時代でした。
景気が良いとは、互いの切磋琢磨していく心を削ぐ最も大きな要素でもあるような気がします。時間と共に我々の生活も変化します、化学も進歩すれば技術も進歩しますから当然の事です。その生活を支えている経済の上でも変化していかなくてはならないように思うのです、不景気という声が甘えの構造を作り上げているのでは?と。
東大に入ればもう将来が約束されたと言う時代は終わったように思います。学問の世界であれ、職人の世界であれ、生涯切磋琢磨していける人のみが、その世界で生き残れる時代のような気がします。どの世界でも優秀と言われる人はほんの一部の人なのだと思います、その過当競争に勝ち残った人のみに与えられる称号なのではないですか?
食べ物屋さんのカウンターの中で働く若者の顔が生き生きとしてきたように思います、生きる事への心構えが変わっていかように思えたのです。不景気と言われ続け、就職難と言われた事柄が、彼等の中にも浸透し、切磋琢磨する心を育んで来たように思うのです。その心が顔に表れ素適な若者へと変えて行ったように思えるのです。
当然の事として女性にモテルという男はほんのわずかなわけです(これも男のプロと言えるのかも知れません)。男がこの事にあこがれ「見果てぬ夢」を生涯持ち続けるのも分かるような気がしてきました。 15年6月6日