まだ、生きていろって

 先日、飛行機で福岡まで行って来ました、その着陸の時の出来事です。いったん着陸態勢に飛行場を目前にして再び上昇をし始めたのです、ふと前方のモニターに目をやると前方に滑走路が見えてきており、その手前端に一機の飛行機があるではないですか、当然の事としてその上を上昇していった訳です。

それまでは窓側に座っていたので何となく外の景色を眺め、有名な運送会社の社名が屋根に書かれているのを見て、こんな所にまで広告をするのだと感心などをしていたのです。徐々に高度を下げながら旋回し窓の外の感じが変わって行く時間が、いつも長く感じながらも取りとめも無く考える事が、癖に成っている私にとっては面白くさえ感じたのです。

「再び上昇していますがくわしい事は後ほど説明します」とのアナウンスが直ぐにあり、何事も無かったように再び旋回し又着陸態勢に入ったのです。その後のアナウンスも直ぐに着陸するという簡単なものでした、これは明らかなニアミスであり大変な事故につながりかねない事柄でしょうが、表面上は何事も無かったように時が流れたのです。

私もそのニアミスを感じながらも意外と冷静で、外を眺めながら同じように高度が下がっていく風景を感じ、運送会社の広告を同じ用に見つけ、その航路は1メートルと違ってないのではないかなどと、その正確さに感心しながら静かに時間を消化して行ったのです。そして、飛行機は何事も無かったように着陸し、乗客も整然と降りていったのです。

帰りも飛行機でしたが今度は違う航空会社のものでした。別に意識したわけではなく偶然です、ですが今度も着陸時に何かあったらしくスチュアーデスを全て座席に早めに座らせたのです。私の座席の3列目前程に座っており、まだ新人らしく不安そうにしているのです。私は逆に「あなたが不安になってはダメでしょう」と微笑みかけていたのです。

今度もテレビの画面を見ていたのですが、今度はスイッチが入らぬままでした。往復ともに何か異常を感じたのです、少なくとも往路に関しては紛れも無く管制官のミスでしょう。そのミスをカバーするだけの技量がパイロットにあったと言う事でしょう、注意力のある、優れたパイロットに巡り会った幸せというものだと思っています。

神様はまだ私を生かしていてくれるのだなあ、とそんな感じで飛行機を降りたのです。これも全て運命だと思っています。現代社会は自らの力で安全というものを管理できる社会ではありません、あらゆる所で自分の命を他人の管理下に置き、ただ祈るのみという姿勢をとっているのです。それが現代に生きると言う事でしょう。

都会では道路という道路にはガス管をはじめ、色んな危険物が張り巡らされているでしょうし、交通機関にしても何時命を失う事故につながるかもわからない可能性を秘めているわけです。便利という事柄との引き換えに危険という荷物を背負って生きているのでしょう、ただなれという人間の感性がつつがなく日々を送らせている様に思うのです。

ただ今日、一日生き延びたと言う事を、素直に神様に感謝して過ごしている様です。とは言え、飛行機を降りる時「キャプテンの冷静な判断に心から感謝します」という一言を伝言して来なかった無神経さを、反省する事しきりです。


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