汗をかく、そしてそこから考える
子供の頃、野原をよく走りまわった。鬼ごっこ、かくれんぼ、缶蹴り、冬にはスキー、凧揚げ、木登りまでやり、その上木から落ちたというおまけまで付いている。子供の世界にはガキ大将がいて統率しており、そして何時の間にか自分がガキ大将になっていた。そんな形の中から何となく人間関係を学んで行ったような気がする。
朝から晩まで真っ黒くなりながら飛び回り汗をかいた、そしてその遊びの中で大いに工夫をしてより高度な遊びをする事に懸命だったような気がする。子供には子供の世界があり、けして大人が立ち入る事もなかった。それが自立心を大いに高めたような気もする。小学生という組織があり、中学、高校と続き、それぞれ経験する事の違いもあった。
ある企業経営者が言ったそうです、「まず知恵を出せ、知恵の出ない者は汗をかけ、それも出来ない者は会社を去れ」と。ところがナショナル電気の創設者の松下幸之助氏はそれを聞いて、「まず汗をかけ、そのかいた汗の中から知恵を出せ、それが出来ない者は会社をされ」、私ならこのように言うと言ったそうです。その企業は数年後に倒産したそうです。
子供のテニスを見ていますと、テニスそのものが下手な子でも、腰から下の動きはプロの選手並に動いています。上半身を隠しながらビデオテープを見ていますと、どちらが名選手なのか分からない動きをしています。人は動くという原点は足なのであろうと思うのです、ただ動かない生活をしているために退化していくのであろうと思うのです。
「冷や汗をかく」とも言います、そして実際に汗が出て来ます。それは代謝を良くして脳細胞の活性化を図る、生命体としての自らを守るための機能ではないかと思うのです。汗をかくと言う事は生きるという行為の上で大変に重要な要素ではないかと思うのです。幼児は懸命に這って動きます、そして立ち上がろうともがきます。
それも発汗を促がす一連の動作のような気がします。事実赤ん坊は良く汗をかきます、肌着の交換は頻繁に行なわなくてはなりません。これも全て脳細胞の活性化のための行為と考えればうなずけますし、肌着の交換も楽しくなるというものです。とにかく年齢が低い者ほど良く動きます、年齢を増すと共に動きが鈍くなるのも事実です。
働くという行為の中で汗をかくと言う事が現代ほど軽んじられている時代はなかったように思うのです。働くと言う事に限定しなくとも良いのかも知れません、生活の中でと言った方が的確かも知れません、健康(美容のためかな?)のために、運動しようという意識は生まれている様です。もう一歩踏み込んで脳細胞のための汗ととらえたらどうでしょう。
現代社会は頭脳という方に偏りすぎている様に思えてなりません。頭脳とは創意工夫という時点で初めて能力を発揮するものでしょう、それ以前の汗をかくという行為があってこそ、生きてくる能力であると思うのです。動物であるが故に汗をかくのが当然だという意識があったに違いないのです、人の意識がここまで進むとは思えなかったのでしょう。
しかし、「人の喜び」とは汗をかいた中から生まれて来るような気がしてきたのです。汗とは筋肉の刺激の結果であり、感動とは脳の刺激の結果でしょう。この二つが組み合わさった時「最高の喜び」が生まれて来るような気がするのです。