学生の学力が低下したと言いますが?
テレビの討論番組での事ですが、ある大学教授が言うのです。最近の学生の学力の低さはひどい、ゆとりある教育とか言いながら、小中学校でこれ以上学校の勉強時間を少なくしてどうするのだ、もっともっと学力の低下をまねくだけだろう、と。又国際政治学者は世界史が分からなかったら、国際政治は分かるはずがない、とも言うのです。
私は大学教授に声を大にして言いたい、どうしてそんな出来の悪い学生を卒業させるのかと。学生として一定のレベルに達していない者に卒業証書を出す事の方が、よほど社会に対して害を与えていると。どんどん落第させて、退学させてしまえば、少なくとも出来の悪い学士は少なくなるはずですから。大学のサボタージュが一番の悪でしょう。
入りにくく出やすい大学という概念が過去何十年と続いたわが国に教育現場でしょう。何処の大学を出たかという事はそれ程問題ではなく、入学したかという事が重要視される社会であった事は明白な事実でしょう。それにあぐらをかいて行動してきたのが大学の現場であると思うのです。結果もはや大学に教育と言う概念すら存在しないように感じます。
内部では何の活動をすることも無く、入学したと言う褒美をあげて、遊ぶ時間を四年間与えるのが大学の役目になっていたようにすら思うのです。学生の気持もわかるような気がします、幼稚園から詰め込み教育(私は教育とは思っていませんが)と言われるシステムに乗せられて、生活してきたのですから。唯一遊べる時間と思うのも無理ないで事しょう。
過去は有名大学に入り、有利な就職先を求める、そうすればばら色の人生が約束されている。こう言う神話がありました。終身雇用と社会秩序あり、事実ある程度までその様な現実があったと思います、ですから大学に入るまでが最も大事な時期でもあった訳です。ところが一生勉強しなくてはならない時代に変わったという事でしょう。
別な言い方をすれば、大学入学が終点ではなくなった訳ですから、当然の事としてスピードは鈍るわけです。今までは百メートルの短距離走だったわけです、それが千五百メートルの長距離走になった訳ですから、タイムが遅くなるのは当然です。戸惑ったのは大学です、遊ばせて置けばすんだものを、走らせなければならないのですから。
息を切らせてゴールした者を介抱し、頭をなでてやり誉めてやればすんだものを、今度は走らせるのですから、そのコーチの役割は大変な違いが生ずるでしょう、でもその機能は最早無いのかも知れません。その時必ず行なうのは他人の批判であり、責任の転嫁なのです、自らの成すべき事をしようという反省が無いのです。
子供の学力を低下させた主な原因は、入学しにくく卒業し易くした、大学のシステムだと言い切ります。反対に入学し易く卒業しにくくしておけばこんな結果にならずにすんだと思います、大学自体が安易な道を選んだのです、厳しく採点をするわけでも無く、まあ入学したから良いではないか、と言いながら自分達にとって安易な道を選んだのです。
耳に入る言葉は人の批判と非難ばかりです、自分が今社会に向かって何ができるかとの意見が聞こえません。大学とて人を育てる教育の現場である事には違いないでしょう、自ら出きる事を率先して訴えないでどうすると言うのでしょう。