一生懸命という言葉の難しさ
一生懸命にやったのだから良いではないか、人を励ましたり慰めたりする時によく使う言葉です。確かに人は行動する時一生懸命と言う行為の他に成すすべが無いかも知れません、行為の途中としては正しい様にも思います。ですが結果がより大切という時代でもあるような気がするのです。その結果を正視する事が求められている様に思うのです。
日本人は元来農耕民族でした。田畑を耕すという行為に最も大切な事は、たんたんと体を動かし作業をすると言う事でしょう、「下手な考え休むに似たり」などと言う言葉が生まれるのも、思考すると言う事の重要性があまり無いと言う事でしょう。とにかく目に見える行為にその価値を見出せたのも、農作業という行為から来たものであろうと思うのです。
学校教育という事も同じ事が言えるかも知れません。四五十年前ですら、憶える事をより重要視されたように思います。まして私の子供の時代は覚える量の多さに、疑問を持ったら負け、とにかく憶える事に集中する事を強要されたように思います。とにかく暗記する能力の高い者が有利な受験戦争である様です。
これはとにかく一生懸命にやる事の価値観を高めて来たと言って良いでしょう。進む道を迷う必要性が無いのです、いや逆に疑問を持ってはいけないのです、とにかく与えられた課題をたんたんとこなし、より多く記憶する能力が高い人が有利な学校教育システムであるように思うのです。とにかく思考し迷う事を否定されたのです。
事実農作業のように皆が同じ事をいっせいに行動するような行為には大変に威力を発揮した様にも思います。大量生産、大量消費と言われた時代も又農作業のように皆が同じ物を作り、同じ物を消費していたように思います。工業化とは言え、作業そのものはほとんど農作業と同じようであったのでしょう、一生懸命が大変に活きました。
現代は個の時代です。それぞれの求めにおおじて多品種少量生産と言われる時代です。ここでは何を作るか、がより大事な時代です。何を求めているかを見極める事がより重要な時代です。一生懸命作っても消費者の求めている物でなければ、それた単にゴミを生産している事と何ら変わりは無いのです。行動するだけマイナスになるのです。
日本人の生活の中で、一生懸命がマイナスになるかも知れない、と言う経験は初めてではないでしょうか?大いなる戸惑いを感じているのかも知れません。基本的に行動する前に思考すると言う訓練はあまりされて無く、とにかく早くと言う要求のみを強要されてきたように思うのです。学校教育がまさにこれではないですか?
ある日突然、何が必要な物か考えろ、と言われたような物です。十分に思考し必要な物を選択し、時代に合った物を生産しろ、と言われているわけですから、戸惑うのも無理ありません。この10年ぐらいの間に社会システムの根底から変わってきたのですから、誰しもが戸惑うのも無理ありません。価値観が180度変わったのですから。
考えずに行動する事は無駄に繋がる事になったのです。「下手な考え休むに似たり」ではなく「行動する前に十分に思考しろ」という事であり、時代に合った必要な物を作れ、でないとゴミを作る事になるぞ、と言う時代なのです。ゆっくりと進みましょうや。