金もいらなきゃ名誉もいらぬ(大橋巨仙)
今回の選挙で政治家を目指した人の中で、大橋巨仙ほど国家の事を考え、国民の将来を考えて立候補した人はいないかも知れません。少なくとも政治で金儲けを考えなかったと言う点では、職業ではなくまさにボランテァと言って良いでしょう。その上、年を取ると欲しくなると言う名誉というものも求めたのでも無いようです。
今の政治家はそれを職業として、そこからお金を得て生活している人はほとんどだと思います。その良し悪しを論ずるつもりはありませんが、少なくとも国家の税金という物の流れの中で、生活している事は間違い無いと思います。なぜなら、議員としての給料だけで成り立つ職業で無いと言う事だけは明白ですから。
議員は堂々と寄付を要求します。人はお金を出す時、その見返りを一切要求しないで行動する人は何パーセントいるでしょう、ほとんど皆無に近いのではないでしょうか?宗教団体に寄付するのでさえ、死後の世界の安楽と言うものを求めているに違いないのですから。まして現世においては、多くの場合「えび、鯛」をねらっているに違いないのです。
税金で成り立つ国家予算というものは、必ず税金を消費されるものなのです。蓄えて置いて不慮の事故に備えるという金は残さないようです、そういう意味では酔い越しの金は持たない、という個人の生き方に似ているかも知れません。とにかくお金は使われるわけですから、どんな流れになるかは大変な闘争になるわけです。
そこに大きな力を発揮するのが政治家ですから、その人達への寄付行為という物の意味かうなずけると言うものです。そこは魚心あれば水心、以心伝心と言うものでしょう、互いに共通の利益が生まれる訳ですから、当然の事として仕事と言う行為が成り立ち、お金が流れ、深い人間関係が生まれて来るというのも自然の流れでしょう。
お金だけでは無く、選挙の一票という事も同じようです。元来選挙とは国のあり方を考えて議員を選ぶと言う事である筈ですが、人の心は理想の様には行かず、まず己の有利さを優先させ、まあ国の事は無視してしまうのが一般的のようです。人は自分の生きやすさを優先させる事に流されるのは、やむを得ないのかも知れませんが?
それでは選挙という方法よりも優れた形態があるか?と問われれば困ります。ただこの欠点を十分に承知しながら受け入れていくしか方法が無いと思っている訳です。ですから、ボランテァとして参加しようとする人には絶賛をしたいのです、同時に大変な期待もする訳です。大橋巨仙にそんな心を感じたのは私だけでは無いでしょう。
自ら口にしていました、100万票を取れると思ったと、40数万しか取れなかった時に自分の時代は終わったのかも知れないと。その時から心の中では止める時期を模索していたのかも知れません。とは言え、年間数千万の議員歳費(税金がかからず自由に使えるお金です)を捨てるわけですから、大変な英断であると思います。
うがった見方をすれば、巨仙の知名度が落ち、海外のお店の売れ行きが落ちて来たのを挽回するためのパホーマンスで、最初から計算された行動であったとするならば、私の思考を越えた所の人です。そんな思いが出る事こそ「私の邪心」と言うものでしょう。