頭で理想とする生き方は自給自足かも知れない、でも現実は?

 必要な物を自ら供給できたら、こんな楽な事な無いと時々思う事があります。頭で考えると事柄はやはり精神的な事柄が先行し、気持ちの負担の部分を取り除こうとする事が、先行してしまうからであろうと思うのです。人に気兼ねする事無く生きていけたら、どんなに素適な人生であろうとは、全ての人が思い描く姿でしょう。

 しかし一歩振り返って見れば、これには大変な肉体的負担が伴ってくる訳です。人は食べるという事、すなわち食べ物を手に入れるという事からの、開放のための戦いの歴史であったとも言えるわけです。開放は無理でも、効率的で合理的に組織を組み立てる事で、より安易に手に入り易くする戦いであったとは言えると思います。

 日本国という限定的な見方をして見ますと、それはやはりバブルと言われた経済の時期にあたるのであろうと思うのです。国家と言う視野にたって見れば、より多くの国民が最も安易に食べ物を手に入れやすかった時代と言って良いでしょう、そして二度と再び訪れる事の無い経済状態とも言い切ってしまってもかまわない、異常な時代とも言えそうです。

 人という生命体は不思議というか繊細というか微妙なバランスの上に成り立っている様です。人の筋肉は使いすぎてはもちろんいけません、ですが使わなくとも又いけないわけです。年を取った方が病気をして長い事寝込んでしまいますと、筋肉が退化してしまい歩行困難になってしまう事は良くある事で、使わない恐ろしさがある訳です。

 精神とて同じ事でしょう。使わなくてはいけないわけですが、使い過ぎてもいけないわけです。現代はむしろ使い過ぎが一般的でしょう、結果精神をいかにして癒すかという方向に思考は向くような気がします。それが自給自足の経済を夢見てしまう要素になっているのでは無いでしょうか?現状の負担の軽減という事に成るのかも知れません。

 自給自足の原点は「自分の事は自分でしなさい」という事に成るのでしょう。食べる物、眠る所、肌を触れ合う相手、これら全てを自らの手で手に入れられれば何も問題ないのかも知れません。そしてこれらの事柄を全て満たす事が出来たら、人にとって正に極楽浄土(具体的には良く分かりません)という事に成るのであろうと思うのです。

 現代人にとってこれを実現するのは至難の業と言い切れるでしょう。どのような強者になろうとも、規則に束縛されない生き方というのも無いからです。反面弱者の立場も明らかになって行っている様です、特に弱い男の立場です。女性から拒否されるセクシャルハラスメントという事も、その一例に過ぎないような気がしてなりません。

 これからの時代この弱い男が急激に増えていくような気がしてなりません。自らの手で肌を触れ合う異性を射止める事の出来ない男です、そしてこの男達のための社会システムが必要な気がするのです。食べて眠ってセックスをする、これをつつがなく営める事が正に基本的人権といえるのではないでしょうか?そんな風に思うのですが。

 人が生きるために最も必要な物といえばやはりそれは食べ物でしょう、それが満たされてこそ次なる行動に移るというものでしょう。その最も大切な食べ物ですら、お金で取引される経済の中に取りこまれているのです。命を永らえるのも金次第といわれても仕方の無いのが現状だと思います。(地獄の沙汰も金しだい、かな?)

 太平洋戦争後の大変な食料難の時代に、食料が統制経済になったことがあります。正に規制の枠の中に入れられ、法律で管理された訳です。ですか、現実は法を無視した闇経済の温床になりました、このとき法を守った裁判官が栄養失調で死んだのは有名な話です。ですから厳密な意味では、生き延びた全ての人は法を破った人なのです。

 私は人の貧しさが法というものを生む背景に有ると思っています。基本的には法律など少ない程良いのです、人は法でなく心の融和で生きていけたらこれほど素適な人生はありません。現実は戦いの歴史であるために、より生きやすくするための方法として法律が生まれた事は間違い有りません。これも合理主義の一つなのだと思います。

 法も合理主義の一つであるが故に間違いもあるという事です、往々にして行き過ぎも生まれて来るものなのです。もちろん法は守らねばなりません、守りながらも疑問を持ち常に改善しようとする心を持たねばならないと思うのです。そしてこれらは一般人である我々が行なわねばならない事柄なのだと思うのです。専門家では無理なのです。

 裁判官や検事の方は法律というものを絶対視しなくては勤まりません、疑ってしまっては法の番人の役は勤まらないのです。ですから法を変えるのは我々一般人の役目なのです、時代と共に変えながら、より暮らし易くするのが我々の役目なのです。これこそ法の自給自足というものでしょう、自らの手で行なうと言う意味では。

 法律の原点は貧しさから来るもののようです。食料難という事も一種の文化の貧困でしょう、貧しくなければ規制というものも必要無いのです。そして規制が起きれば必ず地下経済が生まれるのです、これが二重の苦しみを人々に与えるのです。そして今の日本の貧しさは性の問題でしょう、であるが故に規制されながらも行なわれているのです。

 性というものもお金で取引されているのが現実でしょう。でも法的には認められていないはずです、まさに闇の経済で取引されているのが現状でしょう。とは言え、先日テレビにて深夜ではありますが、新宿の性産業の放送をしていました。ここにも大変な変化が表れている様で、本物志向の波は押し寄せている様に思いました。

 一昔前のこれらに関する放送は、騙された大変なお金を使わされた話がほとんどでした。ところが新人がお客さんを接待している部分が放映されているのです。勿論客も接待する女性も全裸な訳です、当然の事としてカモフラージュはされていますが、それをモニターで見ているベテランの女性が色々とアドバイスをしているのです。

 これをコメントしているのがプロ野球の古田捕手の奥さんで、フジテレビの元アナウンサー○○さんなのです。彼女の口から射精産業と言う言葉がでるに及んで、世の中ここまで進んだのかというのが私の実感でした。大変に良い事と思いながらも、もはや地下経済だけでは耐えられない程に膨らんだのであろうと思った次第です。

 一言で言えば、自らの手で触れ合う相手を求められない男が増えたという事でしょう。女性に相手にされない男がお世話になる施設が必要になったという事かも知れません。男女間のことにお金をからめる事を、売春とか買春とか言い法律で禁じている様ですが、これはもはや現状に合わない法律になっている様に思うのです。

 今の若者は性の貧困からかなりの勢いで脱出している様に見受けます、豊かになるという事の意味を改めて考えて見る必要性を感ずるのです。食べ物が豊富になった時、人は分業制となり、お金を介在させ、色々な食べ物を手に入れ、豊かと言われる食生活を手に入れたように思えます。自ら生産する自給自足ではこうはいかないでしょう。

 豊かさという事はより規制が少なくなり、自らの判断で心のままに行動する事かもしれないのです。女性のセクハラという言葉はまさに自らの心に正直に反応した、感情の表れた言葉のような気がしてなりません。女性の性表現の豊かさを基本として自然発生的に生まれた、もっと代表的な言葉と言っても良いのではないでしょうか?

 性の豊かさとは正に女性の性を求める豊かさの表れのような気がします。女性が性の喜びを求める要求は急激に増すように思えますし、開放という事につながって行くのであろうと思います。開放とは正に女性のためにあるのかも知れません、より素適な男性を求めるエネルギーは激しく増して行くような気がしてなりません。

 男と言いながらも、女性に相手にされない男が急激に増えていく事でしょう、正に自給自足の出来ない男です。一生女性と肌を触れ合う事も無く、命をつきるのではあまりにかわいそうではないですか。やはり経済というものの中に取り入れ、お金で解決される正規のシステムを作り上げるべきだと思うのです。地下経済でないシステムを。

 先日テレビにて、若い女性が性行為を行なった男性に対し、数日後に付き合ってと告白したら断られてしまったと言っているのです。もはや性行為も特別なものでなく、相手をよりよく知るための手段でしかなくなったと言う事かも知れません。性行為をすました後に愛情が湧くと言う事の方が、生物としてより正直なような気がしないでもありません。

 私が青春の頃、アフターヌーンショウと言うお昼の番組を、落語家の桂小金冶さんが司会を務めていたのですが、夜中の23時に遊びまわる若者(私も原宿あたりで騒ぎました)を、人が寝静まっている時間に騒ぐとは何事かといって、大変に叱りつけている事があったのです。ですが30年後の今は24時間が人の生活時間となっています。

 つい先日やはりテレビで、ざこばさんという落語家が若い女性との討論で、若い女性から「セックスをする事がどうして失敗なのですか?」との質問に、しどろもどろになりながら、ビックリするような答えられなう質問をするなといっていました。この時、昔深夜に騒いで叱られたことを思い出したのです。何かダブって思いが浮かびました。

 人の生活習慣とか常識というものは時間と共に変化していくものです。その時その時に生活のリズムで生きて行くしかないのが現実でしょう、ただそのリズムに年齢によりズレが出て来てしまうのも、又やむを得ないのかも知れません。白虎隊の歌にさえ「もう少し時の流れが緩やかであったなら」と歌われているのですから。

 今の我々が生活の中で年齢により一番ズレを感じるのは性の問題でしょう、と言う事は性に対する認識が急激に変わっていると言う事だと思います。そしてこれだけ公の場で公然と討論できる文化が育ってきたわけですから、日陰の身として影でこそこそと存在させていたものを、性の文化として日向に向けおおらかに語る時代なのだろと思います。

 そして生活の中の経済行為として地下経済から脱却させ、正規の経済行為として堂々と振る舞えるシステムを作り上げる時期に来ているようにも思えるのです。もはや売春とか買春とか言う言葉をやめ、法律という規制から外し、女性が職業とする事を公が認め、国営の性に関する店を作り、中で働く女性が国家公務員にしたら良いのです。

 当然私営のお店もできるでしょう。今の郵便局と宅配便が競争している様に、誠意差琢磨できる経済システムを作り上げれば良いのです。私は大変な賑わいになると思います、そしてその中で、性病に関する知識、人生観としての性教育の知恵、その他多くの事柄を学べる、若い男にとっての人生勉強の場になるに違いないのです。

 経済的に見ましても、太平洋戦争後、まずは食料というものが経済を引っ張りました。次は洋服から始まる物です、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、クーラー、自動車、といった物が日本経済を引っ張りました。しかしこれらも満たされた結果もはやその牽引力に陰りが見られたのです、これが不景気の最大要素でここを操作しても無理なのです。

 食べて、眠って(布団も物でしょう)、セックスをする。これが人生であるとするならば、残されているのはセックスしか無いわけです。セックスが開放されて来たのも当然の姿と言えそうな気がするのです、人が求めていく喜びと言う事の流れとして、ははなはだ自然な流れと言えそうな気がして来るのは、私だけでしょうか?

 今、エコロジーと言うのがブームだそうですが、地球に優しくと言う事も又自然の流れ出しょう。人の生活の中でゴミの量も少なく地球に優しい時間の過ごし方に一番ふさわしいのはセックスかも知れないと思うのです。基本的には何も道具は要らない訳ですし、しいて言うならば、コンドウさん一つあれば(若者なら数個かな?)すむ訳ですから。

 真面目に話します。少年期から青年期に移る時の男の問題として、性の実践ほど難しい事はありません。精神的なことから肉体的なことまで大変な思いをして克服し、成長していく訳です。男の基本は全て一緒だと思います、行動や経験が男に差をつけていくものだと思っています。もし何も教育されていなければ男は皆強姦するでしょう。

 性の部分でも規制が外され自由競争になれば、当然の事ながら疎外される男が出るのはやむを得ない現実でしょう。それを素直に受け入れながら対策を講じる方がより良いと思うのです。やはりお金で解決するシステムが一番適していると思うのです、そして表立った経済の中に取り入れていく方がより良い生活を営めるような気がするのです。

 もう一つは税収の面です。経済が不景気と言う事の一面は税収が上がらないと言う事です。食べ物でも、洋服その他の物でも、いまや売上が落ち込む一方です、もはや経済を引っ張る力はありません。これから伸びるのは性にまつわる産業であろうと思います。これが基本的には認められておらず、地下経済となっており税の対象になっていないわけです。

 税収を上げるためにも、経済の活性化のためにも、法律を変え、性を表の文化とし、堂々と経済活動の一環として認め、新たな経済活動の広がりを作ることが、結果的に国を潤おし我々の生活をより豊かにしていくように思うのです。


戻る