人の顔はヌードだ
人の習慣ほど面白いものは無い様です。顔を人前にさらす事になんのためらいも無いのは何故だろう、何故人は洋服を着るのか?と言うよりも何故隠すのか?と考えた方が懸命かも知れません。逆に顔だけは何故隠さないのか?と考えた方が妥当かも知れません。洋服が単に寒さ対策だと言うならば、顔だって十分に寒いはずであろうと思うのです。
集団の中での個人の識別とか、理由を上げれば色々と言えるかも知れませんが、とにかく顔は隠さず露出のままと言う事になったようでです。そこに人間の心理の面白さがある様に思えてならないのです。顔は万人がさらけだし表情と言うものが個々の人格を表す様で、実に様々な趣のある個性と言うものを作り出す結果となったのかも知れません。
人は見られていると言う事が、大変な緊張感を持続すると言う事につながっていくような気がします、いかに他人の目を気にしながら生きている生物か、と言う事になるのでしょう。人はそれぞれの身体の中で最も豊かに筋肉が発達して、魅力的は体型を示しているのは顔のような気がするのです。露出している事の優位さの表れではないかと思うのです。
町の中を歩きながら、又オープンカフェでお茶を飲みながら、通りを歩く人々の顔を眺めていると、なんと個性的な顔の多い事、そして魅力的な顔の連続なのです。一日中見ていてもけして見飽きない心の感動があるのです。そしてほんのちょっとの時間でも良いですから私と一緒に語らいをしてくれませんか?とお願いをしたくなるのです。
若い時は、女性に対し、顔よりも洋服で隠されている部分の方により意識が有りました。男の心理として当然かも知れません、現在もその意識が無いかと言われれば、けして否定は致しません。ですが隠しているが故の緊張感の無さというものを、より多く感じるのです。この人の一番素適な部分が顔なのだ、顔で十分ではないかとすら思えるのです。
顔にも勿論筋肉が有ります。一般に人の感情を表すのは表情筋と言われるものです、そして人により発達する筋肉が異なってくるわけです。人の体って面白いもので、よく使う筋肉がより発達するわけです、結果それがその人の体型をきめるかたちになっていくわけで、その人の原型となり、その上にその時々の感情が表情として表れる訳です。
なにか物悲しそうな寂しい顔、周りまで引き込んで楽しくしてしまうようなふくよかな顔、なにか緊張してしまうような恐ろしく怖い顔、細かく上げていけば切り無く表現できるのも顔の面白さであるようです。ですがこれはその人が普段作り上げる事で出来てきた、表情筋の発達した結果の表れでしかないのです。日常生活のたまものなのです。
表情の基本は、正にその人の生活そのものと言切ってしまっても、過言では無いかも知れません。それくらい顔にはその人の人生が表れているような気がするのです、日々の生活の中で育んで来た生活の中の知恵が、表情筋として発達した筋肉の中に蓄積され、表情として素適なベースとなり、その時その時の心の感性が表れるように思うのです。
もし顔を隠す事が日常生活の習慣となっていたら、こんな素適な表情を人は作ったでしょうか?私は断定的に否定します。たぶん見られると言う事は、見せると言う事の外に、伝達するという行為も含まれている様に思うのです。人はきっと自分の心を人に伝えたいのです、集団で生きる生物の本能と言っても良いような先天的な感性ではないでしょうか。
人は自らの心を人に伝え分かってもらおうとする本能があるのではないでしょうか?無意識のうちに人に訴えながら行動している様に思うのです、そしてその行為がままならないが故に、時々人のいない所に身を置きたくなるのです。でも長時間居ると又寂しくなり雑踏の中に身を置くのです。基本は仲間が欲しいのです、一人でも多く。
基本的には人が人を呼ぶようです、繁華街と言われる所は益々人であふれます。集団の中に何か安らぎを感じるのでしょう、でもそれはその中で心の通う仲間を見つけたい願望があるからでしょう。ですが現代社会はなぜかままならないのです、なかなか親しい仲間を作りにくいようなのです、何か共通の話題が必要なようです。
私は犬を飼っています、毎朝犬との散歩が日課になっています。近くの公園に毎朝集まる散歩の人々がけっこう大勢いるのです、犬を連れている人は少数派です、ですが犬を連れている人とは会話が弾むのです。犬という共通の話題があるからかも知れません、というよりも同じ環境という安心を求め合うのかも知れません。
ですから不思議な事に、犬の名前は知っていても後は何も知らないのです。お互いに犬の名前で呼び合うのです、○○ちゃんのおとうさんとか、○○ちゃんのママとか言い合っているのです。共通の趣味があり安心して会話のできる環境がそこにあるのかも知れません、人は寂しさと同時に安心と言う安らぎも同時に求めているのかも知れません。
自らの心を人に伝えたいと言う気持ちは全ての人あるようです、とは言え伝えると言う事はそれなりに技術のいる事のようなのです。そしてその能力にかなりの格差があるようなのです、きっと先天的能力としての本能としてではなく、後天的な能力として自ら培っていかなくてはならないものだからでしょう。これがかなり辛いのです。
心を伝えたいが、伝えるためには学ぶことが必要である。これが顔を露出する結果を招いたのでは無いかと思うのです。そして顔に色々な表情をあらわす機能がついて来たのでは無いかと思うのです。表情筋の発達とは学んできた心の表現と言う事になったのでしょう、正に個性と言う事になるのだと思います。顔が素適なわけです。
「一目惚れ」という現象は正にこう言う事なのかも知れません。そしてその人をもっとよく知りたいと思う心は、その人の欠点も含めて受け入れたいという心の願望なのかもしれません。若い時のエネルギーが隠れている部分も含めて恋する人なのだと訴えているのかも知れません、とかく裸の付き合いを求めたがるものなのです。
私のように長く人生をやっておりますと、素適な部分だけの心の会話をより多く求めていくような気がします。露出された素適な部分の顔を見ながら、たぶんそれよりは醜いであろう隠された部分はそっとして置いて、心の会話に感動を求めたいと思うような気がするのです。きっとその方がより多くの感動を得易い事を学んだのでしょう。
まずは伝達能力を高めなくてはと思います。町の中で、素適な顔に感動し、共に語らいのひと時を持っていただけませんか?とお願いした時、私の顔を見て、「私くしもその様に感じていましたの」という言葉が返ってくるような、そんな「顔」を作らなければ。