子育てと介護(@介護について)
人類は個々に生きるという事へ大きな流れとなっている様です。個人を尊重するという原則を貫こうとするとまずは一人で生きるという事、すなわち自立するという事になるのであろうと思うのです。そしてどうしてもこの自立と行為の中からはみ出す時期が、人生の最初と最後にあるようです。すなわち子供と老人なわけです。
日本と言う国が国家として成立したのは明治時代からかも知れません。それ以前は藩と言う形でそれぞれが独立国家の形態をしていたのかも知れませんが、多少の差はあれ基本的には農業を基盤にした経済の上に成り立っていた国家であり、農業を基本にした生活形態を多くの人々が取っていたとであろうと思います。
共同体であれ個人であれ、生きるための食べ物をどのようにして手に入れるかの、戦いである事には違いがありません。人は生活の場と言いますか食べ物を食べる場所と、手に入れる戦いの場所とは異なるようです、働き盛りという言葉がある様に、食べ物を手に入れるようと動く年代があり、保護される年代も又あるようなのです
長く続いた農業を基盤とする生活を分析して見ますと、若者は男女問わず仕事場(戦いの場所)に出ています。母親とて例外ではありません、乳飲み子を抱えている場合は子供を連れて田畑に出かけ、時々母乳をあげながら働いていたのでしょう。太平洋戦争後まもなくの農家にはこう言った光景はまだ見られましたから。(私の子供の頃です)
年老いた老人は幼児と共に家にいて、ぞくに言う「孫のお守り」をしていたのでしょう。考えてみれば幼児と老人は行動半径も速度的能力もはなはだ近いと言えそうです。子供の行動と共に一緒の時間の経過を楽しむ事が出来るように思うのです、子供の時間に合わせながら、子供が主体の時間の過ごし方が出来るような気がしてなりません。
それに比べ母親は何かにつけて忙しいのです、子供の時間に合わせると言う点では無理が来そうです。忙しさのあまり「早くしなさい」と言う言葉の連発になり、自ら手を出しやって上げるという結果をまねくのであろうと思うのです。合理的な生活には早くなじむでしょうが、自主性とか感性を磨くという点ではマイナスになるのではと思えてなりません。
ある意味において、老人が幼児に接しながら生活の知恵というものを何となく伝え、個というものを超越した社会的ルールと言うものも、それとなく伝えていたように思うのです。そして幼児は自ら行動し失敗したり成功したりしながら、豊かな感性と判断力を自然に身に付け、人としてバランス良く成長して行ったと思うのです。
その時代は家という一つの家族単位で生活し、長男という確たるリーダーを定め、「老いては子に従う」などという言葉を加味しながら、人間はそれぞれの時代を時間的な役割を何となく定めながら、人は一生を全うしたように思うのです。一つの集合体の中で揺り籠から墓場までという人生の一生をまっとうできたように思えます。
夫婦という家族単位に移った現在、いやもはやそれもやがて崩壊し男も女も一個人として生活する時代がそこまできているのかも知れません。少なくとも年老いた夫婦が二人で生活していると言う現状はありとあらゆる所で見られる現象でしょう。もはや自立できない老夫婦が存在していることはまぎれも無い事実だと思います。
人類は元々全集団で生活し全てが共同作業であったわけです、基本は共同作業でしょう。老いて自立できなくなった時は、そこの共同体が保護すべき事なのかも知れません。元々最初と最後は自立できないのですから、何らかの方法で保護をしてきたわけです。時代と共にそれが道徳として行動されながらも、敬う気持ちもあったわけです。
個という時代になりますと、何はともかく自分の一生という物を自らの力で作りあげていかなくてはなりません。働くという事が出来る時代すなわち自立できる時代はそれでもかまわないでしょう。が、人が老いて旅立つ時は今の時代どうしても保護を受けずに済ませるという事はほとんど不可能に近いと思うのです。自殺でもすれば別ですが?
社会機構として制度を確立しなくてはいけない時代になっているようです、それもかなりのスピードで。現状では集団の形をとり介護という形で世話をするという事が、現実にそった行動であろうと思います。社会という組織の中では経済行為として確立し、その中で若者が生活できる基盤を作っていく事だと思うのです。
人は元々狩りをしたり自然の実を食べたりしながら生きてきたはずですし、その当時は平地と言うよりも林や森を好んで生活の場にしたはずです。農業というものを憶えるに至って平地を好むようになり、当然の事ながら生活の場が変わったわけです。時代が進んで都会というものを作り、又生活の場が変わってきたのです。
都会という所は人にとってまさに生きるための戦場でしょう、人が老後をゆっくりと過ごすには適した環境ではないようです。ゆっくりと時を過ごせる介護施設を地方に作り産業とする事によって、介護という事を仕事にする若者を集め家庭を築かせ、地方の活性化に役立てる介護専門の町が出来てもいいように思うのです。
今の50代後半から70代の元気なお年よりは、最も生活が安定しお金も相当に持っている様です。ですが現実は体が不自由になった時の事を考えて、お金を使えずにいるのではないかと思うのです。昔は「老いては子に従え」と子供の為に使ったのであろうと思うのです、引き換えに旅立つ時に世話をいてもらったのであろうと思うのです。
現代はお金を持ちながらも十分な世話をしていただけないお年よりが大勢いるのではないでしょうか?逆にいえば沢山のお金を抱えながら亡くなるお年よりが大勢いるのではないかと思うのです。これが現代社会の一番大きな歪みになっている様に思えてなりません。お金が回らない最大の要素でもあるような気がしてならないのです。
お年よりが旅立つ時の心配が無くなれば安心してお金が使えると思うのです、子供の為であれ自分の為であれそんな事は問題ではありません、意味の無いお金が箪笥の中に眠っているという事が無くなるという事なのです。これが経済の活性化に役だつ早道のような気がしてなりません、日本経済も良くなっていくと思うのですが。
経済はともかくとして、介護施設を充実させるという事は急務のような気がします。「終わり良ければ全て良し」と言う言葉がある様に、人生の幕引きは心おきなく素適でありたいと思わない人はいない筈ですから。