道具(文明)を生かすのは知恵と心(文化)です

 台所の包丁と言う物があります、現在の人間の生活とは切っても切り離せない物となっている物の一つでしょう。大変に便利なものであるには違いなのですが、反面大変に危険な物でもあるわけです。日本国内で起きる殺人事件の大半は凶器が包丁ですし、先日の小学校で多数の児童が殺されたのもやはり包丁でした。

 包丁の原点は石でしょう。多分狩りの時、石を投げる事から始まり、その後ひもをつけたり、棒に石をくくりつける事によって、より強力な狩りの道具を作ったに違いありません。そして石を尖らす事によってより刃物に近づけたというわけです、その後石が金属の置き換わり、鉄が発見され鋼を使った刃物へと移っていくわけです。

 そしてその間、その刃物の主な使われ方が狩りから人間同士の戦いに使われるようになるわけです。最初は戦いの道具として開発され、その後我々の生活の中に浸透していくわけです。刃物を始め自動車や飛行機などの乗り物、鉄砲なども戦いの武器として開発されたものであるのも又事実です。通信機やテレビなども例外ではありません。

それは開発研究費が無限大にあるというのが主な理由でしょう。特に第一次世界大戦及び第二次世界大戦の時の、化学の進歩は見を見張るものがあります。国家の威信をかけた戦いのための武器ほど激しく進歩するものは無いと言う訳です。今の私達の生活基盤はほとんどこの頃に発明されたものばかりだと言っても過言では無いでしょう。

 そう考えれば、私達が文化的生活とか文明とか言っている物の基盤は戦争という戦いに他ならないと言う事になる訳です。戦争という殺し合いをなくしては今日の生活は得られなかった、と言う事になる訳です。ですからそのなごりとして、包丁という刃物での人殺しが時々行なわれるのかも知れないなあ、などと思ってみたりもします。

 便利な道具ほど危険と背中合わせだと言う事です。ガスにしても電気にしても使い方を一つ間違えれば、とんでもない惨事になる事だけは誰でもが知っていることです。電気の漏電が元で火事になりますし、ガス漏れによる爆発で死者をだす事も珍しくありません。だからと言っていまさら薪で炊事するかまどに戻る事は出来ないでしょう。

 マスコミは何か事件があると、その道具は危険だとすぐ言いますが、今の我々にとって生活の周りで危険でない物は無いと言っても過言でないと言えるでしょう。携帯電話の出会い系サイトと言うのが大変にはやっていて、それで出会った女性が殺されたとマスコミが報道しており、その電話がいけないような事を言っておりました。

 原因を道具に持っていく事はもっとも安易な結論の出し方かも知れません。そう言った考え方をするならば、人殺しの道具としてもっとも多く用いられるのは包丁です。台所から包丁を無くそうと言うキャンペーンをどうしてやらないのかと思う次第です、きっと国民受けがしないし、受け入れられない事を承知しているからでしょう。

 我々が生活している周りの道具で危険でない物など無い訳ですが、それ以上にその便利さを享受しており、生活に役立てているわけです。携帯電話の出会い系サイトというものも、多くの人が上手に利用し、多くの素適な出会いを得ているに違いないのです.統計学的に言えば事件になる数字などと言うものは無視できる範囲でしょう。

 人と人の関わり逢いの中で起きたトラブルを一般的に事件と言いますが、これは個人の知恵で避ける事は可能でしょう、逆に言えば個人でしか避けられない事柄でもあるわけです。旅をするにしても、お酒を飲むにしても、自然を楽しむ、お酒を味わう、と言いながらどこかで人を求め、出会いを求めているのです。新たな出会いが欲しいのです。

 人は常に心の広がりを求めてやまないのだと思います。ただその欲する心が人の弱みとなる訳です、その弱みに付け入ろうとする者、その人の心を悪用しようとする者が出てくるのは世の常だと思います。それを上手に回避する能力はそれぞれ個々に身に付けるしか無いと思います。台所で手を切らないように上手に包丁を使うように。

 問題は事故を言われるものでしょう。飛行機事故や電車の事故のように一個人ではどうにもならない部分があります。これはその乗り物に乗った時には、自らの命を他人にゆだねたわけですから、万が一事故に遭遇した時は運命として受け入れるしかありません。それを拒否するならば、そう言った道具を受け入れなければいいのです。

 しかしそれでは自分の生活範囲をはなはだ狭める事になる訳です。行動範囲と危険という問題と比較しながら、何を受け入れるかを判断する以外に方法は無いようです。自分の生活というものを総合的に判断し、何を選び何を切り捨てるかを自ら選択するしか無いわけです。究極の安全というものは無菌室なのかも知れません、それとて人に託すわけです。

 安全というものも個人で見極めるのははなはだ難しい時代になりました。原子力発電所の事故となりますと、一個人で回避するのは気の遠くなるような次元になる訳です。人の五感と言うものは何の役にも立ちません、生命体として持っているものでは何の役にも立たず、自覚症状が出た時は確実に死がおとずれる、というやっかいな部分がある訳です。

 我々は生活の中に何となく取り入れて、いつのまにか抵抗無く生活しているのです。ほんの10年前程はペットボトルで飲料水を買い求めるなどと言う事は考えられませんでした。ですが今は、500cc150円というガソリンの3倍も高価な水を飲んでいるわけです。数年後には携帯用の酸素ボンベを持ち、放射能測定器をぶら下げて散歩しているかも知れません。

 それでも人はその環境を受け入れながらつつがなく生活しているような気がしてなりません。東京の今日(726)は大変に涼しく感じました、それでも29度あったのです。数年前はとてつもない暑さと感じていた気温なのです、人の環境に対する順応性の大きさに驚くばかりです。いやこれが生命力というものなのかも知れません。

 とにかく人の生活環境はますます危険と背中合わせの文明に頼らずには、生きていけない時代になる事だけは避けられません。そしてそれを活用するための知恵と心がますます必要となるわけです。でも人類は素直に受け入れ、その中での新たな幸福感を追求していくように思えてなりません。


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