テーマって大事だな
最近、文章を書いていてつくづく思うのです。テーマさえ見つかれば後はすらすらと文が進むのです、何について文にして表現しようかと思う意志が決まってしまえば、後はスムーズに進むのです。人生においても何をするかという事は決めるという事が大切でなのだなあと、そして又、決まり難い事でもあるのだなあと思い出したわけです。
日々の生活の中でも、今日一日何をしようかと思い、行動が定まらず、なんと無く1日を過ごしてしまうという事もあるわけです。そんな日は何となく気分も優れず怠惰な一日を送ってしまいやすいものなのです。人間の一生とて同じ事でしょう、テーマが定まらなければなんと無く送る日々が続くのだろうと思います。
若い人と話をしていると、やりたい事も無いし何をしたいのかも分からない、という言葉をよく耳にします。そんな時、その若者の意志がよく分かりませんでした、何となく言い訳にしか聞こえなかったものです。ですが文を書き出して見て感じたのですが、テーマが浮かばない事があるのです。そんな時何をしたらいいか分からないといった若者の気持ちをなんと無く感じたような気がしたのです。
一つには生きる事が安易になってしまったために、生きるための手段を見つけるという事の必要性を、あまり意識する事無く時間を過ごし、成長してしまったのではないかと思うのです。ただ生きる事だけだったら難しくなさそうだけど、現代の社会を見ていると将来の夢もみにくい現実があるようにも思うのです。
物も豊富で経済もデフレ傾向にあり、将来に光が見え難い状態での現実で、自分のテーマを見つけなさいという事も、かなり難しい事なのかも知れません。人間が一人で(特に男が一人で)生きるという事は難しい事ではありません、それを今の若者はなんと無く肌合いで感じているのだと思います。そうすればそれ程のテーマも必要ないのでしょう。
文を書いていて思うのです。何について書こうかと思う事はその時その時の自分の心なのですね、自分が表に表現したい心なのだなあと感じたしだいです。(これも文を書きながらです)ですから自分の心の中だけにしまっておけば良い事柄については、テーマは必要ないのかも知れません。きっと自分の中だけの楽しみなのだと思います。
人間が集団の中で生きるという現実を選んだ時、その集団として生きるためには自己というものをその集団に対して表現しないと、自分のいる場所を失う結果になりやすいという事も事実でしょう。その集団の中に自分の存在というものを表示しておかないかぎり、集団に存在する場所が失われていくのも事実だと思います。
個という存在で生きる事も不可能ではないかも知れません、具体的に言えば一人離れ小島の無人島で生活する事です。しかし生命体として生きるという事への難しさを考えると、やはり集団という形を選んでしまうというのが、人という動物なのかも知れません。人は所詮、個という形でははなはだ生き難いように出来ているのだと思うのです。
色々と迷いながらも、結局は集団の中で何となく生きていく事を選択してしまっているようです。一言で言ってしまえばその方が生きるのに安易であるからでしょう、合理性の追求は楽な生活の追及に他ならないわけですから、思考の中とは別に肉体の要求として、安易な生活の出来る集団を選んでしまうのでしょう。
そうしてその集団の中で又合理性の追求、いわゆる楽な生き方を探しているのかも知れません、その結果自分の心の中に閉じこもり、自分自身の安易さの中に身をおき、社会への表現を失っていったのかも知れないと思うようになりました。(これも文を書きながらです)そして自分の立場を失っていく事になってしまったのでしょう。
これも合理性の追求の行き過ぎかも知れません。現代は何事も行き過ぎと言うか、過剰の時代のような気がするのです。物もあふれ、食べ過ぎをとがめられる時代ですから、合理性の追及だけが行き過ぎないという事の方がおかしい事かも知れません。当然の事として社会性を失い自己の中に閉じこもる人も出るのでしょう。
前にも述べましたが、生物は(特に動物)飢餓との戦いであったようです、ですから欠乏という事に対しては、色々と対策がとられています。ところが過剰という事にはほとんど無防備なのです、過去にそのような経験も心配もした事が無いという事なのでしょう。生活の中での合理性の追求も例外では無いように思います。
人は最小限、社会とのかかわりは持たねば成らないように思います。多少なりとも自己表現が必要なのだろうと思うのです、自分が社会に対し何をして生きていくかという自己表現は少なくとも必要なのだと思うのです、それが社会という組織の中で生きていく最小限度の自己表現だろうと思うのです
人は生きるという事に対して常に最小限度のテーマを持つ必要はあるようです。別に永久不変である必要は無いと思います、いえ逆に常に変わっていくものでもあるように思います、やりたい事は変化していって良いものであろうと思います、と言うよりも自分が夢中になるものにぶつかるまで、変化すべき事柄であるようにさえ思います。
そしてテーマを引き下げながら、社会に対しぶつかって行くのです、何度も何度もはね返されながらもぶつかって行くのです。同じテーマであったり、テーマが変わっていったりはしますが、そんな事はささやかな事です。大切な事は社会にぶつかるエネルギーです、それを繰り返す事によって何かを得ていくものです。
陶芸家の言葉を借りれば、物を造るということは究極の自己陶酔ということになり、若い海洋学者は自己満足と言い、多くの人が自己満足してくれる社会が良い社会、という事に成るのだと思います。そして一人でも多くの人がそのように言い切れる事の出来るテーマにぶつかる事が大切なのだと思うのです。
一人のささやかなテーマが集まることによって、大きな表現になるのだと思うのです。桜の花びらが集まって華麗な美しさを表すように。