若い男性との雑談です
この方も私のHPを読んでくれた方です。何回かのメールのやり取りの後それではお会いしましょうという事になり、お茶を飲みながらの談話になったわけです。メールのやり取りの時から言って頂いていたのは、27歳でモデル業をなさっていると言う事でした。お会いしてみるとさすがに良いマスクで第一印象は「もてそう」でした。
表参道の有名な事務所(何も知らない私でも知っていました)に所属している方で、その事務所に所属している方が載っているかなり厚い本を持ってきて見せてくれました。多くは女性の方でさすがに美人の競演という感じです、中には中年の男性も含まれていましたが、私も負けてはいないなと内心自惚れたわけです。
午後2時少し前にお会いしたと思います。カフェに入り色々と話しました、いつもの事です、でも何を話したのか内容は何も覚えていません。ですから普段話している色んな事をなんと無く話したのだと思います、そのように言いますと会話が途切れ、なんとなく気まずい雰囲気を想像されるかも知れませんが、湯水の如く話す私です。
彼はほとんど聞き役でしょう、8割は私が話しているでしょうから。ですが喜んで聞いてくれているかと言う事は彼の目が表現してくれています、次第に目に変化が現れるわけです、ますます私の口の動きがかろやかになって行くわけです。人は懸命に聞こうとするだけで会話のキャッチボールに十分に成るのです。
この会話の姿勢は子供の頃父に与えられた感性だと最近思うようになりました。小学生の4、5年生の頃から父に経済の話をよく聞かされたのです、何も憶えていません記憶に無いのです、ただ父の前で一生懸命に聞いている自分の姿だけ、写真のように頭に浮かぶのです。そして質問をしたというのです、後から聞いた事ですが。
父は一人っ子で話し相手がいなかった様なのです、それで私を捕まえては話し込んでいたようです。今思えば私に話す事で自分なりに経済を分析し組み立てていたのだろうと思います、自分も40代にかなり苦しんでいた頃によく話し相手になってくれた方がいたのですが、自分で話しながらまとめていくのです。
相手からの意見を求めるというよりも会話していく事が大切なのです、言葉にして表すという事だけで十分に思考しているのです。黙々と無言のままに頭の中だけで構想していてもなかなか前に進みません、堂々巡りを繰り返していることが多いのです。言葉にして表にあらわすという行為が、いかに人の脳を刺激するかという事でしょう。
男であれ女であれ、若者と話すという行為が自分にとっても大変に重要な行為なのです。話すというだけで十分に自分の頭の活性化に役だつわけです。まして相手が若者であれば未来があるわけです、常に前向きの話ができるわけです。お互いの明日について語りあえるわけです、これからこんな事をしたいと言う具体的な事柄を。
私と同世代の人の多くは昔話が多くなるわけです。思い出も時にはいいものですが、まだまだやりたい事が多くあります、過去に生きるには早すぎると思っています。その辺からして同世代の人との会話は噛み合いません、ですから若者と会話を求めるわけです自ら進んで。それが若さを保つ秘訣だと思っています。(若いかどうかはわかりませんが?)
若者と会話をしている時に心がけている事が一つだけあります。人生に対する答えを持たないという事です、人との会話の原点は思考の押し付けがあってはならないという事です、会話をする事と議論する事とは違います、論破する事に何の意味もありません。会話とは人間関係を深めることが目的ですから。
歯医者だった頃、学会で論じ合ったことはあります。これは仕事としての戦いですからやもう得ません、仕事とは反面敵を作る事でもあるわけですから。ですが会話をして敵を作るのでは何の意味もありません、私生活の中でわざわざ敵を作る必要は無いわけです。気持ちが通じない人とは一緒の時間を持たなければ良いわけですから。
若者にいつも言う言葉があります。私の言っている事はけして正しくない、これが正しいという事は無いのだ、それはそれぞれの生き方でしか無いのだと、だから君は君の生き方を作れと。君の生き方を作り上げるのに、私の生きてきた人生が多少の役に立てば嬉しいのだと。そうして私から色んなものを盗んでくれと。
今日の私があるのも色々な方の教えがあっての事で、多くの人に育てあげられて来た事だけは間違いない。「先輩の恩は後輩に返せ」という言葉もある通り、人生とはそうやって巡り合っていくものだろうと。そうしていつの日か君が後輩に返してやる日が来る事を楽しみにしているよと。
若者とはカフェだけでは空き足らず、夕食を共にする事になり、私の行き付けの店で食事をして別れました、7時30分頃でしょう。始めて遭って5時間以上も話したのですからかなりの量です。でもほとんど憶えていません、ただ今度クラブにつれて行ってくれ、一緒の踊ろうとの約束だけは憶えていました。
数日後の金曜日にクラブに行こうとのメールが来ました、こころよく誘ってくれたわけです。夜の12時近くに迎えに来てくれ、麻布十番にあるクラブにつれて行ってくれました。以前行った事のある店でしたが、経営者が変わったようで内装も一変し、雰囲気もすっかり変わっていました。クラブはたぶん4年ぶりです。
軽く水割りを一杯飲んだ後(酒量ははなはだ少なめです)、フロアに行って踊ったわけです、久しぶりでしたがそこそこステップも踏め体も動きました。30分程踊り続けたでしょうか、汗ビッショリになったためにフロアから離れ、なんとなく雰囲気を楽しみ、1時間から1時間30分程を過ごした後、近くのカフェで談話して、3時過ぎに帰ったと思います。
帰り道の途中で、モデルとしてのプロの歩き方を教えていただきました。どこの筋肉をどのように使うのかを考えながら歩いたわけです。やはり姿勢を正しくするという事はかなりの多くの筋肉を上手に使い、健康の基本であるという事をあらためて感じたわけです。夜中に大の大人が歩き方を教わる姿もコッケイかも知れません。
テニスは人相手の格闘技ですか、ダンスは自分の中だけの表現です。ブラジルのカーニバルの踊りにしても、アフリカ音楽のダンスにしても、自分の中での自己陶酔のように思うのです。阿波踊りの言葉に「踊る阿呆に踊らぬ阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」とあるように踊りというものは世界共通の物のようです。
陶芸家の言葉に、物を作るという事は自己陶酔の究極でしょう、と言っているのを聞き非常に納得した事があります。が、ダンスも自己陶酔の究極のような気がします。そして究極の自己陶酔こそ、人生の最高の自己満足ではないでしょうか?
(この若者からHPへの掲載の許可を得ましたので載せることにしました)