感ずる事が大切です
今日一日どんな行動をとったか?何をしたか?と自問自答するのが人の常かもしれません。しかしながら人間の行為などと言うものはささやかな事柄だと思います、まあ取るに足りない事柄でしょう。大切なのはその行為を通して何を感じたかであり、その感動を通して心がどのように豊かになったか、が大切なのだと思います。
人間は、何はともかくお腹を満たす事から始まります、空きっ腹では事は始まりません。それが生命体の原点だと思います。肉体を維持してこそ始めて色々な事柄が始まっていくわけです、ですから視点を変えれば、食べる事が最も重要な行為なのかも知れません。ですが肉体を維持するだけでは人としての意味を問われる事も事実でしょう。
人の行為の原点は食べること、すなわち肉体を維持する行為に他ならないとは思うのです。ですが行為そのものには何の意味も無いのも事実でしょう。その肉体を維持した結果生まれて来るであろう事柄こそが、人生で価値といわれるものごとに繋がっていくように思えてならないのです。
男と女に関する事でも同じ様に考えられるのではないですか?手をつないだり、キスをしたり、あるいは性的な交わりとして肌を合わせたり、行為としては色々なものが考えられます。しかしそんなものは単に物理的な接触に過ぎないのではないですか?そういった行為の中で「何を感じたか」と言うことが大切な事であると思うのです。
人はその心の変化を愛のある行為と表現しているのではありませんか?ようは行為そのものではなく心の変化を求めているのでしょう。すなわち感じるという感性を求めているのだと思います、それを「好き」とか「愛している」と言う言葉で表現しているに過ぎないと思うのです。
しかしながら、人間は食欲、物欲、性欲という欲望というなのもとに、色々な行為を行う事も事実です。これは平たく言えば生き物として生きるための本能に近い部分かも知れません、これがあるからこそ生命体として、地球上に生き延びられて来たと言っても過言では無いのかもしれません。
人間としての価値観を何処に置きどのようにして感じていくかという事に他ならないと思います。人はそれを人生観と言い、生きるとはどういう事と問いかけながら、時間というものを過ごしているように思うのです。思考を繰り返しながらも出て来る思いが日々変化し、一層苦悩の中に迷入してしまうのも又人生のような気がするのです。
思考も行為も蓄積ができるもののような気がしてなりません。しかし人生は時間と共に変化し消費していくものであるような気がしてきました。筋肉も蓄えられます、しかしその筋肉に行動としての表現は蓄積できません。筋肉はすぐに忘れてしまいます。体調を壊し数日間休んだあとのテニスは(又テニスが例ですみません)はなはだお粗末で寂しいかぎりです。これほどまでに表現能力が低下するものかと疑いたくなる程です。
これは筋肉の感性なのだと思います。そして感性とははなはだ維持する事の困難な人の能力なのだと思うのです。心の感性とて同じ事でしょう、人の能力として、筋肉の感性も心の感性も違いがあるはずが無いのです。同じように蓄積する事など不可能で、その能力を維持する事の困難さに違いがあるはずが無いのです。
常に日々の鍛錬が必要で、常に表現している時間が必要なものでもあるような気がします。心の感性はその変化をつかみ難いものですが、筋肉の感性の変化はこれほど分かり易いものもありません。鍛錬を怠り怠けた場合、取り戻すのに怠けた時間の三倍を必要とするようです。ましてや体調を壊し、食事も満足に取れなかった場合などは、気の遠くなるぐらいの時間が必要となります。
日常の生活の中で心の感性を維持していくという事も並大抵な事では無いでしょう。その感性の変化と言うか低下を意識するという事も、不可能に近い程難しい事にちがいありません。自分の心の変化を相対的に比較するすべが無いからとも言えるかもしれません、それぐらい心の感性とは難しいとも言えます。
逆に言えば、筋肉の無い人という者もいない訳で、筋肉の量の相対的比較でしかありません。日常生活の中で運動能力の表現は何らかの形で、全ての人が行っている訳です。ようはその内容が問題とされる訳です、それがまた厄介な問題となる訳です。誰にでもできる事でもある代わり、誰にもできない次元もある訳です。
同じように、心の感性の無い人も存在しない訳です。何らかの形で全ての人が感じながら、心を豊かにしようと生きていると思います。そうしてそれぞれが満足という心の潤いを求め、時間というものを消化しているように思うのです。ですがそこに表れてくる結果という物に明らかな違いが出て来るようにも思えてならないのです。
人は生まれながらに持っているものに対して、はなはだ無頓着に対応している様に思うのです。歯医者をやっていた頃は、多くの人が歯はあってあたりまえだと思っているように感じました。無くなって始めてあわてているのです、数少なくなった自分の歯を何とか残してくれと、私に無理難題を言うのです。そんなになるまでは私の言う事などに耳を傾けようとしなかった方までが。
失って始めて気づく事がほとんどなのかもしれません。元来人は野を駆け巡り、風を感じ、気候の変化に敏感に反応し、死というものに背中合わせで生きていたと思うのです。だから生きる喜びも大きかったのだろうと想像するのです。そこに研ぎ澄まされた感性が生まれ生きるという事への感動も生まれたと思うのです。
生物は常に飢えとの戦いであったようです。人の体も飢えというものへの危険信号を、お腹が鳴るとか色んな方法で知らせるようにできています。ところが食べ過ぎという危険信号を発する器官はほとんどありません、そういった可能性がほとんど無かったと言う事でしょう。ところが現代は飢えということからほぼ開放されてしまった様です。
結果、失った感性も大きいのではないでしょうか?肉体の肥満もさることながら、心の肥満も大きいような気がするのです。それが人の心に潤いを与える感性では無く、感情のままに走る我がままさを助長し、人に不愉快さを与える原点になっているように思えてならないのです。
人は常に何かを手に入れれば、何かを失うものなのかもしれません。飢えを克服して死の恐怖から遠のいた分、生きる感動も失ったのかもしれません。結果、感ずるという心も自ら意識して育てようとしないかぎり、失っていく一方なのかも知れません。筋肉も野山を駆け巡り食べ物を探し求めていた頃は、スポーツジムなど不必要であった様に。
先日、テレビで部屋を片付けられない人達の事が紹介されていました、これなども物があふれた現象で、生活の肥満なのかも知れないと思って見ていました。人間の能力として不足という事に対応する反応はかなり優れているように思います、しかしながら過剰という事への対応ははなはだ未熟としか言いがたいように思うのです。
何事によらず今の我々の生活は肥満との戦いのように思います。その中でも一番切実に感じるのは「心の肥満」ではないでしょうか、豊かな感性をはぐくむのではなく、感情のままに行為のみを追及しているように思えてならないのです。