ルール(法律)って、なあーに
法律を専門に学んでいる人々(判事、検事、弁護士さんなど)は法律を絶対だとおっしゃいます。私には良くわかりません。ただ私は法律を守った方が生きやすいから守っています、ただそれだけです。それを破ると時間の長さはともかく、ある一定の場所に隔離され、行動も束縛され、テニスが出来なくなる。これは私にとって一大事なのです。
私の様に事業をしている者にとっての一番のルールは税金についての事柄です、歯科医院を経営している時からですから、税務調査(税金を正しく申告しているかを調べる事)を何度受けたでしょうか、今改めて数えてみましたが四回までは思い出しましたが、一つぐらい忘れているでしょうから、きっと五回ぐらい受けているでしょう。
28歳から55歳までの間に五回ですから多いのか少ないのか、微妙なところかも知れません。でも前回の税務調査はいつだったろうと思うくらいですから、かなりの年月受けていないと思います、ここ何年間は今年こそ受けるだろう今年こそ受けるだろう、と思って過ごして来ましたから。
前回の調査の時、税務署員にこう言ったのです。あなた方は経済の審判委員なのだから、是非、頑張ってほしい。そうでないと隠す事無く税務申告している者がバカを見る、正直者がバカに思える世の中にならない様にするには、ひとえにあなた方の力に頼るしかない。多いに力を発揮してほしい、と。税務署員は苦笑いをしていましたが。
でも、私は正直な気持ちなのです。申告の内容に間違いはあると思います、間違いというよりも見解の相違という物です。紛らわしいと思った時は事前に税務署に相談に行った事も数多くあります。そのときの指示の通りに申告しても、あとで変更させられる事もありますから、それぐらいルールとは難しい物なのでしょう。
もっと身近な所では交通ルールがあります、一番わかりやすいのは自動車の制限速度でしょう。一般国道であれ、高速道路であれ、制限速度を守って走っている車はあるでしょうか?逆に全ての車が制限速度を守って走ったら、日本の経済が成り立つでしょうか?私ははなはだ疑問だと思います。そのぐらい守るという事が難しいルールなのだと思います。
日本人の生活の原点はルールでは無く、恥の文化ではないかと思うのです。自分の心に問うてやましくないかという事が最も重要な事のように思うのです。それが過去の日本人の底流に流れて、その上にルール(法律)があったように思うのです。ですからある程度あやふやなルールでも、何となく生活が成り立っていたと思うのです。
その恥の文化も崩壊しつつあります。村上前参議院議員の国会による証人喚問というものを見聞いていましても、何の意味もなくなってしまったのは、あの席で恥を書く事に何のためらいも感じられなくなったからのような気がするのです。そのために今までのルールでは機能しなくなっているように思うのです。
やはり現代社会は相手に恥というものを認めさせるのでは無く、相手にもルールを施行する事を認め、ルール上で堂々と戦う行為を称賛する社会であるべきです。問題の原点を国民が感情で判断し、相手に恥の強要をする社会システムでは、いけない時代がきているように思うのです。
基本的にもっとルールというものを整備すべき時代と言って良いのではないかと思うのです。そのためには現実に守れるルールを整備すべきです、それをきちっと守って堂々と戦っていける世の中を作るべきです。そうしてたとえルールに触れた人間であっても、堂々とルール上の戦いを認めるべきです。
その戦いに恥の文化を押し付けてはいけないと思うのです、それでは感情が支配する社会になってしまうのです。現在の私達の生活は文明という物に支えられた、はなはだ合理主義の生き方になっているはずです。ただ事件が起こった時だけ、なぜか感情が支配する社会になり、相手に恥の文化を強要するのです。
我々の生活もそうでしょう。たとえば交通違反を一度もしていないという人がいるでしょうか?現実に捕まった事が無いという人はいるかもしれません、しかしそれは単に見つからなかったと言うだけで、違反をしていないと言う事とは違うはずです。逆に見つからなければいいだろう、程度の気持ちでいるのかもしれません。
これが自分の中で決めている恥の文化なのだと思うのです。そして自分では納得していながらも心のどこかでルールというものを破っているという後ろ暗さも持っているのです。ですから何かことが起こった時お巡りさんに強く出る事だできずに、後ずさりしてしまう事が多いのではないですか?
俗に言う、たたけばホコリのでる体に皆がなっているように思うのです。国家は国民のそういった感情を上手に利用しながら国家というものを治めてきた様に思うのです。これは国の治め方としてかなり上手い方法であるように思います。と言うよりも安易な方法として流れて来たように思うのです。
治められる方もまあ楽な生き方のできる世の中であったのだろうと思います。自分に甘く判断しながらも、他人特に社会的エリートに対しては感情的に攻撃しながら、恥の文化を強要する事の快感を味わっていたのだろうと思うのです。これは社会的弱者にとって大変な快感となり、生活のバランスをとっていたように思うのです。
とにかく恥の文化というあまり大きな大木があったがためにそれに頼りすぎ、ルールというものがいいかげんに扱われ、それを別の木として育てる事をなおざりにした結果、ルールというものが宿り木のように恥の文化に寄生する事になり、恥の文化という大木もほぼ枯らしてしまった様に思うのです。
この社会的システムも国民全体の底流に恥の文化が流れている時は、それなりに機能していたと思います。しかしながら現在は国民の多くにこの恥の文化は消滅しつつあるように思います。現実には選挙というものも違反をしないで当選する事の難しさ(あえて不可能とは言いません)はこの上ないでしょう。
我々の生活基盤から現実に守れるルールを作るべきです。そうしてルールという物を守りながら生活し、堂々と自分の主義主張を述べられる社会を作るべきです。それでこそ国家のために命をかけられる政治家が生まれると言うものではありませんか?