中年のオヤジはイヤラシイ(若い女性のメールから)
40から50代の男性の多くは何となくイヤラシク接してくる、と若い女性は言うのです。分からなくもありません、中年の男というのは一般的に女性にどのように接してよいのか分からないのです。そのくせ人一倍女性には興味を持っているのです、興味を持っている心が何となく出てしまうので(特に目に)、一層イヤラシク見えてしまうのでしょう。
これは時代背景からお話しませんと、分かっていただけないと思います。昭和33年頃だったと思います、売春防止法というものが出来まして遊郭(今のソープランドのような物です)が無くなってしまったのです。私が中学生の頃です。社会の中に性行為をするところが無くなってしまったのです、法律という物をきちっと守ろうとする人は結婚しないかぎり異性との交わりは不可能でした。もちろん水面下では色々と行われていたに違いありませんが。
また、現代のように恋人になれば当然の事として交わるなどという事も少なかったと思います。性行為をしたならば当然の事として結婚という事を意識していましたし、男の立場から言えば、女性の親に殴られるのを覚悟の上であり、家の娘を傷ものにしたと罵倒されるのをあまんじて受けるつもりであったろうと思います。
とにかく女性との交わりを持つなどという事は最高の不良であり、不純異性交遊という言葉が堂々とまかり通っていた時代です。要するに世の中で真面目と言われていた人ほどそういった経験をする機会が少なかったわけです、でも心の中では皆同じように触れ合いを求め、悶々としていたには違いないのです。
何時いかなる時代でも、若い男の心は皆同じだと思います。そこから経験をつみながら男として成長していく訳です、欲望というものを自己コントロールする事をおぼえ、そこから理性というものも作りあげ、結果人間性というものが生まれてくるわけです。ですから男の原点は皆イヤラシイのです。
幼稚園の頃、よくスカートめくりという事をしませんでしたか?私は多いにしたかったのですが勇気が無く出来ませんでした。そういう事はしてはいけないと強く教えられていたからです、それほどまでにたしなめる事でも無かったように今は思うのですが?そんなものはいけないと言うからするようなものでしょう。
でも男の欲望はその辺から始まっている訳です。ですから多少発散させながら時間をかけて自己コントロールする事をおぼえていくわけです、私もそうでしたが発散が少なく(ほとんど無く)忍耐(我慢かな?)する事のみ積んできた様に思うのです。それでもまあ理性は出来てきたとは思いますが、しかしこんなものは弱いものでしょう。
我々世代の多くはこの忍耐で時を過ごした者が多いに違いありません。結果、理性というタガが外れやすかったり、緩んだりし易いのであろうと思うのです。まして現代は情報の氾濫で性の表現も激しく、この中で何も感じず理性的に行動しろという事も、はなはだ過酷な環境と言えるのではないでしょうか?
田代まさしという男が女子高生のスカートの中を盗撮したと騒がれましたが、この男もはなはだ真面目な男であるそうです。真面目と一般的に言われる事は少年時代の発散が少なく、忍耐のみが多かったという事なのです。ただ理性というもので必死になって戦っているに過ぎないのです、我々世代の多くの男の共通点でしょう。彼の場合はそこを位置脱してしまったのです、かわいそうとは思いますが現状ではやむ得ないのかもしれません。
「武士は食わねど高楊枝」ではないですが、男の欲望を単に忍耐だけで耐えしのぐには、あまりに過激な情報が氾濫している時代でもあるわけです。とかく真面目と言われた人達が、今はそこそこの社会的地位に付きそれぞれに活躍しているわけです。その力を頼りに女性に接するのでしょう、そこにイヤラシサが生まれるような気がします。
とかく社会的に活躍している男は、社会からの評価がそく女性からの評価と勘違いし易い物なのです。社会環境から来る優位性が若者よりはある場合が多いでしょうから、それをいい事に横暴な振る舞いになり易いのだと思います。それと勘違いが重なりイヤラシサが増長されていくのでしょう。
一言で言ってしまえば、この世代は「性の文化度」が低いのです。今の若者の方がどれだけ進んでいるか分かりません。私は幸いにして子供が高校生の頃から、その仲間の高校生が男女共によく遊びに来てくれました。その子供達を連れて食事をしによく出かけたのです、スポンサーを大切にしなくてはと言いながら、私の脇に女の子が二人来てくれてもてなすのです、どうにいった物でした。私の人生論の難い話も聞いてくれ、まんざらではない気持ちにさせてくれるのです。
大学生の頃は、人生論を戦わしても、こと男女間事に関しては子供達の方が私よりも上でした。家に集まる子供達が特別であったとは思いませんし、礼儀正しいしっかりとした自分の考えを持った子供達であったと思います。これは時代という環境が生んだ違いであり、文化の成熟度の違いとしか言いようが無いと思います。私は子供を通してその世代の若者と接する事が出来、その違いを知れた事は幸いであったと思います。
我々の時代は社会システムがちょうどエアポケットのように性の文化に対し欠落しており、学ぶことが出来にくい時代であった事だけは間違いありません。何時の時代でもどこかに貧困なものはあると思います。太平洋戦争の時代はもっと悲惨な経験をされたと思いますし、その後の食料難も経験されているわけです。自分達の不足の部分をいかにして補っていくかという事もまた人生だと思います。
我々の世代は性の文化に対しはなはだ貧困な者が多い事だけは確かなようです。貧困という事は人一倍興味を持ちながらも、その表現方法が幼稚ではなはだ幼いという事です。男としての性の欲望に対するコントロールの仕方も幼いでしょうし、ましてや女性への対応などという行為もはなはだ未熟であろうと思うわけです。
所詮、忍耐というものから生まれた理性なのです、こんな薄っぺらなものはありません。規則という物で縛られて作り上げられた物ほど崩れ易いものは無いのです、その規則が変化してしまった後も、ただ自分の社会的立場とか年齢だけで、忍耐から生まれた所の理性というものを維持していくのは困難なものなのです。
当然の事ながら若い男女が接する事が多い中に、中年の未熟な男がいれば浮いてしまうでしょうし、イヤラシク感じる事と思います。多少アルコールが入った時などはなおの事一層助長するでしょう、私も含めてその現実を素直に認めないわけにはいかないと思います。
どうぞ、き然とした態度でもって拒否してください。我々は曖昧ではわからないのです、「嫌い嫌いも好きのうち」とか変な言葉だけは覚えているのです、その上社会的にはそこそこ成功していますので自惚れ屋なのです、女性にもてると錯覚しているところがあるのです。ですから誤解させるような行動はやめてください。
「き然と拒否してください」。ただ最後にお願いがあります、この世代は時代が残した哀れな男達なのだという愛情を、心の片隅に残して接していただければ大変ありがたく思います。