幸せという心の感動を求めてさ迷う子羊だな、人間は

  普通人と初めて会うときは一般的にまず顔を見るでしょう。そして顔からなんとなくその人の人間性を想像するものでしょう、それから話をしながらその想像を修正し、その人となりを作り上げていくものだと思います。究極は人の心を知りたい、そうして共に喜びを共有したいと思っているように思えてなりません。

  しかしながら、人間も生命体である以上、生きるための戦いというものを強いられているというのも事実です。戦いながらも、一方では共存というもの模索しているのも事実でしょう。時には戦い、またあるときは心の触れ合いを求める、人間とはやっかいな生き物なのかも知れません。

  赤ん坊として生命の誕生の時はまさしく同じであり平等なわけです、というよりも無に近い状態と言ってよいのだろうと思います。そしてまず与えられるのが愛でしょう、まず母親に慈しみを受け絶対的な愛情の中で育てられ、まわりの大人に保護されながら発育するわけです。

  発育するにつれ接触する人間の輪が広がっていくわけです。幼稚園、小学校と集団の中でどのようにして他人と接するかという事学んでいくのでしょう。その間、人に迷惑をかけないとか、自己主張という事もなんとなく知り受け入れながら、「感動という心」の基礎を作っていく時期のような気がするのです。そしてとりあえず心の基礎を作り終わるのが青春といわれる時期のような気がします。

  しつけといいながら虐待する親の問題がテレビで報道されていました。そして虐待された子供は親になるとまた子供を虐待するとも言っており、今虐待している親は子供の時虐待を受けたことのある人が大半であるとも言っていました。肉体的に傷を受けた心は粗暴と言う結果になるのかもしれません。

  その反対の優しいという心は、肉体的な傷を受けなければ育つという事でも無いでしょう、具体的にこうすれば良いと言える事柄では無いようです。抽象的な意味合いで幅広く優しい心で回りの人に接してもらった幼児という事になるのかもしれません。そうして濃度というか深さというか奥行きというかその周りの優しさの広がりが、その幼児の優しい心の広さに大変な影響を与える事だけは否定できないと思うのです。

  また、優越感とか劣等感とかいう心もあります。どういった環境でそういった心が生まれるのかむずかしいところですが、人には多かれ少なかれそういった心はあるようです。しかしこれは相対的価値観の中で生まれるものであって、比較するところの対象物あるいは対象者が無ければ生まれません。まあ学校の偏差値というものも同じようなものでしょう。

  それに比べ優しさとか粗暴とかいうものは自分自身の絶対的価値観の中に存在するものです、自分自身の判断の中にのみ存在するものなのです。優しさは比較の対象になりません、ですから優しさに感動し涙を流すのです。と同時に粗暴には恐怖感しかなく暗黒の世界になるでしょう、当然顔色をうかがいながらビクビクとした生活を営むわけです。

  10代半ばを過ぎると人は、その後経済社会の荒波に徐々に触れながら戦う事にすこしずつなれていくのでしょう。いつも言っていますが、人も生命体である以上生きるために戦わねばならないのは地球上の掟でしょう。戦い方に色々の方法があり、相手が自然であったり人であったりするのも慣わしなのかもしれません。

  しかしながら、目的がほかにあって戦っているという事だけは否定できない事柄でしょう。戦いはあくまで生きるための手段であって、目的ではない筈です、肉食動物といわれるトラやライオンでも空腹の時出なければ他の動物を襲わないというではないですか。スポーツハンティングとか称しながら意味のない狩をするのは人間だけでしょう、これも粗暴の表れかも知れません。ですから戦いには終わりがあるのです、一生の戦いの終わりを昔は隠居と言ったのです、今は何と言うのでしょうか、やはり定年でしょうか?

  24時間の中にも戦いの休憩というか休みがあります。そうして一息ついたとき思う事は心の潤いだと思うのです、すなわち人間関係なのだと思います。そうしてそれを突き詰めていった究極姿が座禅でいう所の無我というものだろうなとなんとなく思うようになってきました、ただなんとなくそのように思うだけであって確信があって申しているわけではありません。

  でも我々凡人が求めるところは「幸せという心の感動」なんだと思うのです。決して戦うために生きているのでもなければ、相対的価値観の中から生まれる優越感に浸るためでもないと思うのです。それでは粗暴な暗黒の世界になってしまいそうです。究極は涙を流す感動に身を振るわせたいのだろうと思うのです、ですからたとえどのように粗暴な人でも感極まったときは涙を流しながら嗚咽を繰り返すではないですか。

  私は60歳までのあと5年間はテニスに全てを打ち込んだ生活をしようと思っています。どこまでたどり着くか分かりませんが、とにかく上位を目指し競技テニスに打ち込みます。その後はテニスを程ほどにしながら、ヒップホップというダンスを覚え、渋谷の歩行者天国で上半身裸になって若者と一緒に踊ってやろうと思っています。

  60歳を過ぎてもこれだけの肉体を作る事が出来るのだという事を表現し、人に感動を与えたいのです。そして神様から与えられた体(頭脳を含めて)というものを作り上げ表現すれば、人に感動を感じさせられるものなのだという事を伝えたいのです。いかに現代人が怠惰な生活の中で、自分に言い訳をいながら生きているかを伝えたいのです。

  そして10代前半の若者と青春談義をやりたいのです。人間、年をとると子供に戻るというではないですか、60歳も過ぎれば若い少女ともプラトニックに青春論を戦わせられるようになれると思うのです。そうして、次に入っていかねばならない経済闘争のための目的を知り、準備を整えさせながら旅立ちをさせてあげたいのです。

  経済と戦いの場ではいずれ勝者と敗者に別れるのは世の慣わしです。たとえ勝者になったとしてもそれは単にたくさんの食べ物を得たに過ぎないのです、そんな物の中に感動はありません。お金は目的にはならないのです、あくまで手段なのです。確かきお金に追い詰められる事も辛いです、そういった経験もありますので、自殺する経営者の気持ちもわかります。

ですが人生の目的は心の感動なのです、それはすなわち人間関係なのです、それが「幸せ」というものでしょう。たとえ経済的敗者になってしまったとしても、「幸せという心の感動」を得られなくなるわけではありません。もちろんお金などどうでもいいなどと奇麗事を言うつもりもありません、資本主義の世の中です、あるほうが良いと言うのも事実です。ですが、「心」あってのことです。

  「三つ子の魂百まで」と言います。青春と言われるまでの時期に心の基礎を作る大切さが忘れられているように思うのです、特に幼児期の慈しみが大切なのだと思うのです。「鉄は熱いうちに打て」と言うではないですか。


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